SPECIAL ISSUE 01 「ロケットの夏」から「核の冬」へ。

メタルギア生誕20周年を記念し、2007年当時に東京ゲームショウ
「METAL GEAR SOLID 4 GUNS OF THE PATRIOS」パンフレット用に書かれたドキュメントを全文掲載。


最初の『メタルギア(以下、MG)』が発売された1987年、その年この世界に生まれ出た赤子たちは、今年おとなになる。

二十年。
ひとりの人間が成人してしまうだけのスパン。
連続した物語で、これだけの長きに渡りなお生き延びているコンテンツもそうはない。さらにメタルギアは続編でありつつ毎回新たな物語を語るという、これまたしんどい仕事を成し遂げている。
そう、『MG』の物語は一貫したサーガでありながら、その時代時代によって毎回語る内容を変化させてきた。
実は監督自身が語っている「反核反戦」とて、その変化の例外ではない。
その時々の時代を映す鏡としての『MG』とは、いったいなんだろうか。
我らがヒーローであるソリッド・スネークの物語だろうか。
もちろん違う。
正史としてのシリーズすべてに登場し、影を落とす存在。
それが誰だか、ぼくたちは知っているはずだ。

ぼくらが二十年間付き合ってきたこのメタルギアサーガ。
それはつまり、ビッグボスという名の呪いについての物語だ。


『MG』シリーズは、ビッグボスの物語だ。

劇中の時系列から言えば最初の二作にあたる『メタルギア ソリッド3』と『メタルギア ソリッド ポータブル・オプス』では堂々主人公、続くMSX2時代の『MG』と『MG2』では敵役、そして数年の沈黙を破って世界へ羽ばたいた『メタルギア ソリッド(以下、MGS)』以降は物理的な人間であることすらやめて、主人公と敵役のみならず、周囲のさまざまな人間を呪縛する「呪い」へとレベルアップしてしまう。

状況に翻弄される主人公から、状況を支配する敵役、そして状況そのものである「呪い」へと、ビッグボスが存在としてグレードアップしていく物語。それは成長と呼ぶにはあまりにも悲しすぎ、変化と呼ぶにはグロテスクすぎる運命だけれども。


そして『MG』とは、ビッグボスが象徴するそれぞれの時代の神を語る物語でもある。 1987年、冷戦の黄昏に語られた『MG』は冷戦というシステムについての物語だった。

米ソがお互いの核発射設備を24時間監視することで保っていた平和を、「発射地点を特定されない」移動核発射兵器が崩壊させるという物語。
さらに、つづく『MG2』は現在のわれわれがまさに直面している世界を予言していた。

冷戦崩壊後の世界。
それを保有するに足ると信頼されていない小国が核を持ち始めたら。
そして『MGS』で語られるのもまた、冷戦崩壊後の核の在り方についての物語だ。冷戦を懐かしむ傭兵と、冷戦の栄光を取り戻さんとする核抑止論者。ここでは地表貫通核弾頭によって核兵器が「通常兵器化」する恐怖までもが描かれる。
かの国が、テロリストへの先制核攻撃の可能性を公式見解として語っている現在、これもまた予言的な題材を扱っていたといわざるを得ない。

しかし、『MGS2』から小島監督の関心は、核そのものから更に大きなフレームへ移行する。
それは「情報」というものの存在だ。
『MGS2』において語られるのは、情報化時代における個人のアイデンティティの所在と情報を把握する全体の相克だ。

来るべき『MGS4』で語られるものもまた、その情報に他ならない。
かつて「戦場の霧(フォッグ・オブ・ウォー)」と呼ばれたようについ最近まで戦場とは事態を直接把握することが不可能な、伝聞の伝聞によって演じられる混沌だった。しかしいま、兵士一人ひとりにいたるまでがデジタル化によってリアルタイムで完全に把握され、統制される。

核から情報へ。
この変化は何を意味するのだろうか。
それは小島監督が常に、時代時代を大きく呪縛するものを見つめ、そのディテールと可能性を語ってきたということだ。

時代の呪縛とはすなわち神のことだ。
ビッグボスは死んでもなお、クローンとしてコピーされ、更には微細な遺伝記号の要素としてばらばらに分解され、いわば情報そのものと化す。
核という実在から情報という非実在へと軸足を移していった、シリーズのテーマをビッグボスという存在は体現しているのだ。


ぼくらを、そしてぼくらの世界を大きく規定するフレーム。大きな物語は死んだというけれど、それが嘘っぱちだということを小島監督は知っている。
大きな物語はまだそこにある、と。
それはいつもぼくらを規定し、手ぐすねを引いて闘争と破滅へと導こうとしているじゃないか、と。

神は死んだ、と誰かが言った。
小島監督が語るのは、神亡き時代の神だ。
ビッグボスというひとりの男の、グロテスクな変貌を通じて見つめた、それぞれの時代の「神」のディテールだ。

自分達の時代の「神」。
小島監督はそんな大きなフレームを恐れることなく語ってきた。
二十年という時間は、そんな物語に親しんだ人間を作り手にする。
これから多くの作り手が出てくるだろう。
そう、小島監督の「恐るべき子たち(アンファンテリブル)」が。

そして、ぼくもまた小島監督のアンファンテリブルだ。
いや、そう見られたらいいな、そう在りたいなと思っている。
だから、あなたたちも物怖じせずに語ろうじゃないか。
ぼくらの時代の神のディテールを。 ぼくらを呪縛するものが、ぼくらをどこへ連れて行こうとしているのかを。

少なくとも、小島監督は怖れなかった。
ソ連の消滅とそれが起こる年をずばり言い当ててしまっても、自分がいま作っている作品の風景が、NYで現実のものとなってしまっても。
何かを予告してしまうこと。
それは神を崇めも怖れもせずに、ただじっと指すことのできる数少ない正気の人が、時に背負わねばならない宿業だ。


ぼくらが、そんな正気の人になれるのかはわからない。
けれど、誰かひとりくらいはなれるだろう。
だからぼくらも、怖れずに指さそう。
ぼくらの時代の神々を。


小島監督の子供たちの、それが務めだ。
いまこそ、そいつを果たそうじゃないか。

伊藤計劃 (いとう けいかく)

1974年東京都生まれ。
武蔵野美術大学卒。Webディレクター兼作家。
著書にポスト9.11の内戦と民族虐殺を描いた『虐殺器官』(早川書房)。
中学より二十年間、リアルタイムに小島秀夫監督作品の 洗礼を受けてきた「小島原理主義者」。

「ヒデラジ 第238回 伊藤計劃さんの話をしよう」
http://www.kjp.konami.jp/gs/hideoblog/2009/04/000343.html